夜間日記

2022年8月1日~2023年7月31日

第90夜

ゾンビが徘徊する世界であった。そのゾンビに噛まれると、人としての知性や理性を残したままで、見た目だけがゾンビ状態になる。オフィスでの会議中、デスクに座る同僚や先輩が、1人、また1人と顔を伏せって嘔吐した。顔を上げ、ニッカリと笑った彼らの口元には、横一直線に赤く線が入った歯列が覗いていた。私は会議室で唯一、まだ人としての見た目を保っていた「ハル」という青年と2人で逃げ出した。ハルは足が速く、私は戦闘が得意だった。私はハルに左腕を引っ張られて走りながら、すれ違うゾンビたちを叩きのめしていった。逃げる途中で出会った正常者数人と共に、オフィス街で最も高い高層ビルへと逃げ込んだ。一気に最上階まで駆け上がり、鍵付きの広い会議室に立て篭もった。

ゾンビたちは人の知性を持っているため、GPSやスマホの明かりで居場所を特定される恐れがある。明かりが漏れないよう、私たちは昼夜問わず電気を消して生活した。1度だけ、ゾンビ2人が会議室を訪ねて来たことがある。私たちは必死に「ゾンビにはなりたく無い。食糧が尽きて死ぬまでそっとしておいてくれ」と訴えた。ゾンビは不満そうな様子で帰って行った。私たちはそれから数週間、会議室と、会議室のある最上階フロアのみを生活圏とし、少しの食糧を分け合いながらひっそりと暮らした。ハルはいつも決まって、会議室の窓際に置かれたソファに座っていた。ゾンビが少ない昼間の時間帯には、会議室を抜け出して、ハルと最上階フロアを散歩するのが楽しかった。高層ビル特有の背丈ほどある大きな窓から、一緒に遥かに下に広がるゾンビの街を見下ろした。ハルと私は、兄妹のように常に行動を共にした。

ある日から、私は高熱に魘されるようになった。会議室の隅の床にうずくまり、意識をほとんど飛ばして、生死の境を彷徨った。どれくらいの時間が経っただろうか、何度目かの朝、ようやく意識を取り戻した私が身体を起こすと、周りには誰も居らず、会議室はシンと静まり返っていた。窓から朝日が差し込み、埃が舞う室内を青く照らしていた。私は床に座り込んだまま、ハルがいつも座っているソファに向かって「ハル」と呼び掛けた。私の位置からは、ソファの背もたれが壁になって、座面が見えなかった。ハルからの返事は無い。私は立ち上がって、覚束ない足取りでソファの正面へと回り込んだ。革張りのソファには分厚く埃が積もっていて、朝日に照らされ雪のように光っていた。そこには、刺しゅうで装飾が施された立方体の白い箱が、ひっそりと置かれていた。ハルの骨壷だった。

ハッと目覚めると、いつも通りの会議室である。窓の外は真っ暗闇だが、室内は煌々と電気が点いている。室内には、女性が1人立っていた。私は立ち上がって「もう電気をつけて生活しても良いのか」と問うた。女性は言った。

「もう何年もこうやって生活してるじゃない。だってもうゾンビなんだから」

そして女性はニッカリと笑った。むきだしになった前歯には、横一直線の赤い線が滲んでいた。

6時間57分40秒。